『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』
観劇レポート
日本大学芸術学部演劇学科3年
匿名
 上演が終わってその場が劇場から池袋の街中に戻った時、なんて恐ろしいストーリーを野外劇で上演するんだろうと思った。東京オリンピックを控えた日本への、街を歩く人々への、観劇をする演劇を好む人々への強く訴えかける意思をはらんだものであったと思う。 私は野外劇を観劇するのは初めてだったので、その様子の異質さに衝撃を受けた。下手寄りの席から観劇したが、舞台上を見ると自然と街中の景色も視界に入ってくる。物語の進行と同時に背景に映るカラオケ館のネオンがすごく印象深い。しかしそれらを邪魔だとは感じなかったし余計なものだとも思わなかった。むしろそれがこの劇の美術要素であるようにも感じた。
 タイトルにもなっているがやはり劇中の『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』は強烈な意思をはらんでいた。聴いていて耳を塞ぎたくなるほど苦しかったとき、「お節介な人で悪意を持たない人はいない」という言葉を思い出した。悪意を持っている人は劇中に一人もいなかった。しかし大多数が熱狂に包まれていく一方で、少数がその熱気に中身を奪われていた。前半であれほど熱気を持って前向きに生きていた人が大多数に奪われ、呑まれ消沈していく。その残酷な様子を目を塞ぎたくなったり耳を塞ぎたくなる一方で、その様子に熱中している私自身もからっぽに向かっていく人たちから奪っているのかもしれないと恐ろしくなった。
 この『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』に関係のない人間は存在しないと思う。誰もがこの狂気にも似た強烈な意思を自覚の有無はあれど必ず持っている。通りがかる人も、映り込んでいる背景も、例外なくこの物語に必要な素材であったような気がする。今回たまたまオリンピックが題材になっていたけれど、こういった善意が枷となった支配とも呼べる光景はどこにでも存在している。誰もが他人事ではないんだという印象が屋外の景色、街の雑音と人々が交ざりこんでいくことによって強まった気がする。その上この野外劇のために用意された空間外にいる人やものは全くの日常であり、この劇によって行動が変わることはない。その光景が劇中の「からっぽ」のコールと重なって重苦しく感じた。何かに熱狂する人がいるとき、同時にからっぽの人も存在しているということを強く見せつけられた気がした。オリンピックという非日常に熱狂する裏で選手が消費され、そして興味も関心も抱く余裕のない人もいる。これは演劇・芸術にも重なる部分があるし、さらに言えば日常生活でも重なる部分がある。それらを強く印象付ける作品だった。