『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』
観劇レポート
日本大学芸術学部演劇学科3年
福田朝子
 今回私は東京芸術祭2020野外劇の『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』を観劇しましたが、まず作品の内容に入る前に一つ感じた事を書こうと思う。それはあの異様な劇場空間だ。普段は人々の行き交う場、休息の為に立ち寄る場として特に気にも留める事もない場所として存在していたその空間が、たった数日間だけ世界と大きな壁を隔てるようにその空間は私たちの前に現れたのです。これからこの大きな壁の中で何が待ち受けているのか、そんな不安と希望とが入り混じった感情を持ってその空間に足を踏み入れました。舞台が始まる前は風の冷たさや辺りから見えるネオンの光、行き交う人々の声、車のクラクションの音などが私の全身に伝わっていた、しかしその感覚は舞台が始まった瞬間時が止まったかのように気にならなくなったのだ。
 そもそも今回の公演はオリンピックを振り返る上演となるはずだったと演出家の中島諒人さんも当日パンフレットに記していたが、私はこのご時世だからこそ意味があったのではないかと思う。
カズオは初めは小さな運動靴店を救おうと奮闘するしがない青年であった。しかしいつしか彼は自分の身体よりもはるかに大きなものを背負うことになる。それは皆の声援からもみてとれ、カズオを応援するためのチャチャチャはいつしかニッポンを応援するためのチャチャチャに変化しカズオという小さなちいさな存在はニッポンという大きな存在に飲み込まれてしまい、ただ人よりも少し足が速かっただけの青年はその存在意義を捻じ曲げられてしまったのです。感じ方は人ぞれぞれだが「からっぽ」という言葉の意味はカズオの存在を指示していたのでしょう。しかし今回の野外劇に関してはそれ以外の意味があると私は感じた。当日パンフレットにもあった【大きな「からっぽ」の真ん中の、小さな喧騒の物語】の本当の意味はあの場に居た私たち自身ではないだろうか。池袋のしかもバス停も近く人通りの多い場所の何もないからっぽだった場所に突如現れた別空間での小さな喧騒の物語(=公演)、とても偶然には思えないのだ。きっと今回の公演は大きな意味を持っていると私は思う。
 新型コロナウイルスの存在により私たちは人としてのエネルギーを失いました。しかしそれと同時にインターネットという存在により遠く離れた人ともコミュニケーションをとる事ができ新たな世界を自ら切り開いていった。しかし人はインターネットの開発者の存在など気にも留めないだろう、それどころかインターネットを己の力だと信じている。まるでカズオをニッポンそのものだと錯覚しているかのように。舞台が終わり私は何となく辺りを見た。そこにはいつもと変わらないネオンが光る看板や車のクラクション音があった。私はそんな世界の中にある作られた空間の中でずっと座っていたのだ。再び舞台に目を向けると輝いて見えたその空間は暗く空虚なものに姿を変え、その光景は私を物悲しい気分にさせた。しかしそんな経験もいつしか忘れ去られていくのだろう、何故なら私たちの体験など【大きな「からっぽ」の真ん中の、小さな喧騒の物語】にしかすぎないのだから。