『ビッグ・ナッシング』観劇レポート
日本大学芸術学部演劇学科3年
宮崎澪香
 私は彼の作品の真実を理解しようと必死に思考しながら映像を観ていました。
 作品の意味が全く理解出来ないまま帰宅し、あの時間は何だったのか、彼は何がしたかったのか、何を伝えたかったのかと深く考え込みました。そのまま、この作品が過去の記憶となろうとしていたとき、私は自分自身の答えにたどり着くことが出来ました。
 まず前提として、彼の考えを完璧に理解することは不可能です。それなのに、なぜ私は彼の全てを理解しようとしたのでしょうか?神様ではあるまいし、真実なんて誰も理解できるはずがないのに、不可能で無謀な思考を終始働かせていました。それを自覚したとたん、私はなんて浅はかだったのだろうと、とても恥ずかしくなりました。
 何をするにしても、気付いたことや感じたものがあれば、それは確実に自分のものとなって感受性を育むことが出来ていると思います。観劇に至っては、思考せずとも人間関係が悪くなるわけでも自分が損するわけでもありません。むしろ、思考するほうが損していると思います。実際、私は彼の作品に対し、「意味が理解できない」ということしか考えることが出来ず、非常に勿体無い時間を過ごしてしまったように思います。無理に理解しようとせず、純粋に自分が感じたものを素直に受け入れることで、自分自身の立派な経験となり、意味のある濃い時間になっただろうと思います。今回の観劇を通して、感じるという行為が自分から遠い存在になっていることを身に染みて感じました。そして、自分の感じるという感覚がとても鈍っていると痛感しました。
 感じるという行為は、表現をするうえで最も大切なことであり、対象のモノと繊細に双方向に関わる必要があると捉えています。
 意味を理解しようと思考しているときは、双方向に関わることが出来ておらず、自分が一方的に対象に意識を向け、対象からの影響を遮断しているのではないかと考えました。自分自身が身をもって感じたものが必ずあるはずなのに、思考することによって、能動的ではなく、俯瞰的な見方をしてしまうのではないか、そうすると自分が本当に感じたものから背を向けて、常識的かつ普通の捉え方でいようと、自身の感性の多くを心の奥に押し込めてしまっているのではないかと感じました。彼の表現と自分自身が双方向に関わり、五感を働かせ繊細に感じること、そのうえで感じたものと俯瞰せずに正直に向き合うことで、自分の知らない、もしくは隠していた感覚が解放され、表現の幅がもっともっと広がるのではないかと思いました。