『ビッグ・ナッシング』観劇レポート
日本大学芸術学部演劇学科3年
二木凜歌
 配信を観た。始めは回線が上手くいっていないのだと思い焦った。音が無かったからである。どんなに音量のバーをあげても何も聞こえない空間で影が動いていた。自分はいったい何を観ているのだろうかと考えた。事前に情報を調べず、何も分からない状況で観るのは不可能に近い舞台だと感じた。それほどまでに難解で混濁した世界だったと思う。
 私は高校時代世界史を選択しており、世界史が一番好きな科目であった。その中でも中国史は特に好きで神話の時代からの逸話や、水滸伝、三国志などメジャーなものまでよく読んでいた。今回『紫気東来−ビッグ・ナッシング』を二度観た。一度は何の情報も無しに。そして二度目は公式サイトで概要をみてからもう一度。一度目に感じた、難解で混濁した世界だと言うのはあながち間違いでは無かった。それもそのはず、複数の世界や話を行ったり来たりしていたのだから。腕に口が生える話なんてもともと知っていなければ分からない。彼の故郷の思い出と最近の話なんて知らない。分かるわけが無いのである。その分からなさとごちゃごちゃ感が本人の頭に混沌をそのまま移している様に感じることができる一つの要因だと感じた。また、混沌とは別に、影絵をみて一つ頭に浮かんだことがあった。それは魯迅である。高校でいつか魯迅の何かの話の映画を見た。その時の景色ととてもよく似ていたのである。気になって調べてみると、二人とも河沿いの町出身であり、尚且つ彼の祖母が魯迅と知り合いだったそうだ。画面から感じる感情や、色が魯迅のそれと同じだったのは同じ幼少期の経験があったからなのだと考える。そしてそれは故郷という大きな存在が中国では変わらず存在していることを示しているのかもしれない。
 私は今、何を観ているのだろう。そう思って観始めた『紫気東来−ビッグ・ナッシング』だったが、最後の物が持ち込まれ画面に貼られていくシーンで心がざわついた。そのゆっくり流れていく静寂の時間で、いつの間にか鳥肌が立っている自分に気がついた。そこで私は、「ああ何かすごいものを体験しているのだ」と自覚した。『紫気東来−ビッグ・ナッシング』は、私の語彙では説明できない、演劇を飛び出した体験であった。