『ビッグ・ナッシング』観劇レポート
日本大学芸術学部演劇学科2年
中山愛弓
 私は『紫気東来―ビッグ・ナッシング』を鑑賞している間、意識的にも無意識的にも作品が持つ意味やメッセージを追いかけ続けてしまっていた。影絵が表している対象は何か、音との関連はどこにあるのか、何を象徴しているシーンなのか、そして、舞台上にダイ・チェンリエンさんが登場する必要性はあるのか。次々と疑問が頭に押し寄せて、この作品をどのように受け入れればよいのか分からず、混乱してしまった。しかし、作品が進んでいくにつれて自分自身のそのような意識に気づくことにも非常に大きな意味があるのではないかと感じるようになった。私は普段、演劇作品を観劇する際、前後のつながりやストーリーの流れ、音の信ぴょう性や色が持つ意味、第四の壁の存在を「当たり前」のように受け入れて、それが崩れると非常に強い違和感を味わうことになる。せっかく観劇に行ってまでスッキリしない気持ちで終わるのは残念な気もするが、果たしてその違和感は無くすべきものだろうか。現実から人間の介錯と表現を通して上演される演劇という芸術作品において観客は完成された作品の上演のみを鑑賞するのが一般的だが、ダイ・チェンリエンさんは効果音の発生源や紙人形を実際に動かす行為を観客に提示することで、どのように作品が創作されているかまでつまびらかにしていた。これによって単なる映像作品ではない形としての訴えかけが生まれているように感じた。自分たちが日々の中で当たり前のように享受している意味世界と、それとはまったく別の次元で存在しながら一致している物質世界。その両方を感じながら今自分がどこに立っているのかをしっかり見つめ直せと言われているような気分だった。演劇を構築している要素が一度全てバラバラにされて、完全には復元せずに上演することで、それぞれのパーツが溶け出すことなくお互いを違和感として意識し合っている関係性が面白いなとも感じた。コロナ渦で演劇活動が激しく制限された今、私たちが考えるべき芸術の在り方は何だろう、また、どんな挑戦が求められているのだろうと改めて考えさせられる作品だ。意味があるから行動に移すのか、それとも行動を起こせばそこに意味が伴ってくるのか、どのように考えるかは人それぞれだが、少なくとも私たちは今自分なりの答え出す道のりに既に差し掛かっているのだと強く実感した。