『汝、愛せよ』観劇レポート
日本大学芸術学部演劇学科1年
真壁佳乃子
 人それぞれ育った環境によって、潜在的な差別意識があると思う。しかし、日本人は日常的に他国の人々関わることがないため、それが露呈されないだけである。そのため自身の差別的意識にも他人の差別的意識にも触れる機会が少ない。そのような場所で生きてきた私たちにとって、この『汝、愛せよ』は問題に向き合う機会をくれるような、強制的に向き合わさせられるような作品だった。
 差別の始まりは、単語のイメージが先入観としてこびりついているからだと思った。劇中でいえば、「人を殺したことがある」と知ってから、周囲の人たちが彼の事件についての真相を調べ始めたり、今まで肯定的に捉えていた性格を否定的な解釈へ持っていこうとする。それは「殺人犯」のイメージが悪であるからだ。それと同じで、アメナイト=宇宙人(エイリアン)、地球外生命体という先入観があるから、人間と完全に同じ扱いをすることができないのである。
 これは現実の差別問題にも置き換えることができ、○○という国の○○人というカテゴライズをされた人間を見た時、最初にその国のイメージをその人間に当てはめる。そのイメージが少しでもマイナスだと、その人間がどのような人か実際に接して判断する前から警戒し距離を置いてしまう。また、実際に接して仮にその人間がイメージと違っていても、単語にもつ先入観自体が完全に消えることはないのかもしれない。そのイメージを払拭し「差別をやめよう」という意識を持つのは良いことであるが、先入観がある以上、なくさなければいけないイメージを持っている状態がすでに差別の状態であると言える。
 気まずさとは、言いにくいことを言えない時・言ってしまった時のなど、相手の機嫌を伺っている状態orそれに気付いている状態、に感じるものだと私は考えるが、劇を見ている最中も「気まずさ」を感じた。自身の差別的意識に気付かされ、それに関するジョークに笑えなかったことから、気まずさは自分に対してのベクトルのものもあることに気づいた。そのような先入観に気付き、それらにどのように向き合うか考えることが、差別をなくす一歩であると劇に教えられた気がする。よって、差別を無くしていくには、私たちは自分の差別的な先入観、他者の先入観に触れて「気まずさ」を感じあうことから始めなければいけない。